栗農家 松尾和広

能登栗の味にほれ込み、脱サラして能登栗農家になる。

 愛知県岩倉市出身。2005年8月より石川県輪島市にて栗栽培の実習を積み、2006年2月独立。

独立と同時に能登町金山地区の栗園(2.5ヘクタール)を、2009年1月より能登町当目地区の栗園(3ヘクタール)を、2010年5月より金山地区のまた別の栗園(0.8ヘクタール)を栽培・経営しています。



能登に辿り着くまでの私の歩んだ道

 

  • 高校卒業後、名古屋市の流通会社に就職。20歳の時に両親が多額の借金を抱え離婚。
  • 両親の借金と3人の弟の学費支払のため建築職人(コンクリート圧送業)に転身。
  • 以後4年間、毎月15万円と8年間貯めた定期貯金400万円、総額1,150万円を実家に入れる。
  • 25歳で自分のための人生を探し求めて上京。編集プロダクションでの修行を経て、なぜか女性情報誌の出版社に入社できる。
  •  才能も努力も足りず編集部は2年で移動に。以後、3年間の販売営業職に馴染めず退社。
  • この頃、都会での消費者生活から田舎での生産者生活に強い憧れを抱く。
  •  漁師を目指して北海道えりも町でタコ釣り漁船に10ヶ月挑戦。300日間、船酔いで毎日吐き続けた。朝2時半~夜19時まで1日の労働時間19時間、休日は月2,3日の過酷な日々を体験。契約終了後、陸の農家に鞍替えを決意する。

 

今思えば、貴重な経験の積み重ねでした。
建築業や漁師で鍛えられた体力と根性と技術が、農業でも存分に生きています。さらに、漁師時代は人の倍手足を動かせば稼ぎも倍になることを学びました。販売や営業で身に付いた能力は、自営業になってとても役立っています。

 

ただ、20代当時は常に自分の人生を楽しめていませんでした。
朝起きて、今日という1日が始まることが毎日憂鬱でした。
名古屋にいた時は、自分より実家の事情優先です。でも、東京や北海道は自分で望んでいった場所。
なぜ楽しめなかったのか?実際に働いてみて、直観で楽しいと感じる仕事ではなかったことも理由のひとつです。

 

しかし、一番のストレスは人付き合いでした。私自身が、「人とのコミュニケーションが苦手」なことが問題でした。そういう人間は周りにも迷惑をかけます。このままではどこの会社や組織に入っても同じことを繰り返すと思いました。そういう意味でも、個人農家を選んだ一番の理由は「コミュニケーションからの逃げ」だったのかもしれません。

 

そんな何をやっても中途半端で逃げの人生を歩んできた私を“能登”が劇的に変えてくれました。

救世主が次々と現れたのです。


能登移住

 

なぜ能登なのか? なぜ栗なのか?

 

北海道の漁師生活で知った現実。水揚げしたタコが、漁港で1kg 300円ほどで買い取られていました。でも、近隣の町のスーパーなど見て回るとどこでも4倍ほどの売り値でした。
消費者との間に漁港、市場、仲買い、販売店など流通手数料がどんどん上乗せされます。1日19時間、毎日死ぬ気で働いている漁師は安く買いたたかれています。

 

農家になる時にひとつだけ望みました。

「自分で育てたものは自分で責任持って売りたい」

 

どうしたら、最初から直売でやれるか? 
ど素人の私が何となくイメージしたことは、

「農業者人口の多い産地は農協、行政などの大組織が主導権を握っているんだろうなぁ」

「お米やメジャーな野菜、果物はどこでも誰でも作っていて、新参者が勝手なことしたらすぐ潰されそうだなぁ」

相変わらずネガティブな想像です。

 

それなら、「人口の少ない田舎でマイナーな果樹を作ろう」と決めました。
元々、組織に馴染めず東京を逃げ出した自分です。それが一番自分に合っていると思えてきました。
果樹にしたのは自分が甘党であることと、漁師で腰を痛めたことからです。果樹なら上ばかり向いて、あまり腰をかがめる作業は少ないだろうと考えました。

 

そんな理由で見つけた求人情報。ネット検索サイトで「農業 求人 果樹 独立」といったキーワードを入れて、あきらめずに粘り強く探して出てきた何十ページ目かの情報。
「能登栗農家急募。研修期間3ヶ月。独立の意志がある方に限る。土地代無料」
能登ってどこだっけ?、国産の栗があるんだ?、3ヶ月で独立できるの?、土地代無料って資金ゼロでもすぐ自営農家になれちゃうの? 
正直、怪しむより自分の都合のいい解釈で、最高の条件だと思いました。即、研修先の農家さんに連絡を入れ、運よく3ヶ月間受け入れて頂くことになりました。

 

ちなみに、この求人情報の経緯は下記の通りです。

 

・前年まで栽培管理されていた方が高齢(当時89歳)で引退

・地主さんや行政の方が近隣の栗農家さんに声かけるも、他農家さんも高齢で担い手が見つからず。

・隣町の農家さんが仮で預かることに。その農家さんもご自身の田畑で手一杯のため、外から人を呼んでその人に任せてみようと求人情報を出す。

 

そして、いよいよ2005年8月5日。縁もゆかりもない土地、能登に初めてやってきました。
当初は研修先の農家さんに本当にお世話になりました。米作主体の農業法人で、その方の信用で農地も住居も無事に貸していただけることになりました。また、その研修先農家さんのポリシーにはとても感銘を受けました。

 

「買う人に絶対損をさせてはいけないよ」
限りある農作物、少しでも多く高く買ってもらいたいと考えるのが普通だと思います。でも、私が実際に体験して驚いたのは商品化率の低さ。とても厳しく選果していました。直売するのであれば信用が一番大事だということを教わりました。
この土地では珍しく直売を行っている農家さんの元で研修を受けられたことは本当にラッキーでした。

もうひとつ、一緒に石川県主催のホームページ作成講座に参加させていただけたこと。それに伴い、ブログを書き始めるように勧められたこと。このホームページとブログが後々、出会いのツールとして必要不可欠なものになります。本当に3ヶ月間で多くのものを私に残して頂きました。能登に来て、一番最初の恩人です。

 

3ヶ月の研修期間は、8月が草刈り。9、10月は収穫と選果が主な仕事でした。体力的には漁師に比べればものすごく楽でした。ただ、誤算は栗の収穫作業。栗は落ちた果実のみを拾います。中腰で何時間もひたすら拾い続けます。腰痛持ちにはこたえました。

 

最も楽しみにしていた能登栗の味。毎日のように売り物にならない規格外品を持ち帰っては家でゆで栗にして食べました。思いっきりハマりました。本当に毎日食べても飽きなかった。


独立

 

あっという間に3ヶ月の研修期間が過ぎ、いよいよ独立です。草刈り、収穫、選果しか経験していません。そう、栽培方法をほとんど習っていません。
どうやって育苗するのか? 剪定はどの枝を切っていいいのか? 肥料はいつ、どのぐらい施すのか? そもそも1年通して何をしたらいいのか?
研修先農家さんは寝る暇もないぐらい多忙が続き、これ以上自分のことで迷惑かけるわけにもいかない状況でした。面倒を見て頂けるのは3ヶ月だけ。当初からの約束でした。
「とりあえず、ひとりでやってみよう! やってみないとどうなるか分からない」自信も勝算もゼロだけど、独立を決意しました。

 

ただ、生活費がない。
秋に栗を売るまで何かしないと。でも、日中は栗園で農作業しないと。

必然的に深夜アルバイトしかありません。以後、3年間に渡って隣町のサークルKでお世話になりました。

夜8時~朝6時までアルバイト。帰宅後、お昼まで栗園で農作業。夕方まで就寝。冬から夏にかけてはずっとこの生活スタイルでした。
夏までは何とか生活していける目処が立ちました。秋は栗農家に専念するため、3,4ヶ月休業させてもらえました。都合よく働かせてもらえて本当にお世話になりました。

 

さて、栗を収穫したらどうお金に換えるか? 周りの栗農家さんたちはどうしているのか? 

近隣で聞き取りしたところ、全員が地元の農協さんに生栗を卸していました。
その買取価格は1kgあたり400円。我が栗園の前年収穫量が約500kg。400円×500㎏=20万円。

 

え?年間売上20万円!?

 

農協卸しでは生計成り立たないことは想像していました。それにしても…年間20万円。
想像を絶しすぎて言葉を失いました。肥料、農薬、農機具などの経費、私自身が1年間畑で働く人件費…単純に考えても20万円で収まるはずがありません。大赤字になることは分かります。

 

「なんで栗やっているのですか?」
失礼ながら、栗農家さんたちに聞かずにはおられません。
「儲からないから、とにかく経費と労力を使わない栽培をしているよ」
「生活費は年金があるから。身体動くうちは栗園続けようかなぁと。毎年もうやめようかと思っているけど。」

「栗専業で生計立てている人なんて誰もおらんよ。みんな他の作物がメインだから」

 

厳しすぎる現実を知りました。農協卸しで20万円…直売したからっていくらで売れるようになるのか...。


「栗はやめとけ」

「そんなことしなくても栗は育つ」

 

年が明けて2006年。能登に移住して半年が過ぎました。

 

「都会から移住してきた人が栗農家になったらしい」

「いや、もう栗は止めてサークルKに就職したらしい」

 

そんな噂が広まり、僕の存在に行政が気付くようになりました。
今でこそ、就農人口を増やそうと国も地方もかなり力を入れています。

移住後、当面の生活資金、住居費、就農に必要な農業機械などの設備資金、ありとあらゆる支出に補助金がもらえる時代です。

でも、当時の石川県、奥能登地域はほぼ無政策でした。

 

地元農林事務所の普及員さんをはじめ、行政の方が次々に僕に会いに来ました。

聞けば、奥能登に他県から農業をするための移住者なんて何年ぶり? 何十年ぶり?? 
とにかく行政の方たちが誰も記憶にないとのこと。

Iターン者が来るなんて思っていなくて、僕にどう対応したらいいか困っていました。

とりあえず、口をそろえて言う言葉。

 

「能登栗はやめときなさい」

 

詳しく聞くと、能登栗の現状が分かってきました。

・昭和40年代後半から栗園の開墾が相次ぐ。

・昭和50年代には約400軒の栗農家が誕生。

・現在、栗農家軒数は100軒もいなくなった。そのほとんどが70歳以上で後継者がいない。

 

はっきり言えば、ブランド化に失敗した作物でした。

高値で売れない。作っても採算が合わない。

儲からないから撤退もしくは転作する。後継者もいない。急激に耕作放棄地が増えている。

 

ブランド化失敗の原因を探ってみました。

そもそも昭和40年代に栗を始める時の位置付けに原因があると思われました。

それは、「なるべく手をかけないで収入を増やせる作物はないか」という理由で栗を選んでいたこと。

あくまでも副産物なのです。石川県が、主作物のある農家さんに2番手、3番手の位置付けで栗栽培を勧めて始まりました。しかも、いい品質のものを作るのが目的ではありません。粗放栽培できる作物だから選んでいたのです。

 

能登の栽培指針に従ったら生き残れない! 私の中で危機感が生まれました。

 

「例えば、有機栽培とか無農薬とか特別な栽培方法を教えて頂けませんか?」

「普通じゃなくて、もっと安心安全で美味しい栗を作りたいです」

行政に相談しました。

 

「そんなことしなくても栗は育つんだから!」

 

一蹴されてしまいました。


運命をかえる出逢い

 

悶々とした日々を過ごし、春が来ました。ふと、一通のメールが来ました。

昨年、研修先農家さんに誘われて、とりあえず作ったホームページ。そのホームページの初めての反響でもありました。その送信先は“くりはち”さん。東京の焼き栗販売店です。

 

松尾栗園さま

 

ネットからで失礼いたします。私共東京の「くりはち」と申します。都内で焼栗販売をしている小さな会社です。当社は国内産の安全で美味しい栗にこだわって、販売しています。今期業者取引の可能性があるものであれば、是非一度お話させていただければと思っています。茨城・高知・伊勢・丹波・宮崎など現地に行ってお取引させて頂いています。一度伺ってもよろしいでしょうか?  

 

くりはちのやきぐり

 

 

2006年5月。くりはちの代表と担当者2名が能登にいらっしゃいました。

目的は生栗の仕入です。単価は地元農協の2倍、800円/㎏を付けて頂きました。それだけでも充分ありがたい話です。でも、話はそれで終わりませんでした。

 

「松尾さん、自分で焼き栗やってみる?」

「輪島朝市でお店出したら売れると思うよ」

 

まったく予期しない言葉でした。畑で農作物を作ることしか考えていなかったので...。自分で加工して商売をするなんて頭の片隅にもありませんでした。

 

くりはちさんは、本来は生栗の仕入れだけが目的でした。ただ、農協の倍価格で買っても、私の年間売上は20万円から40万円になるだけ。私が農家として続けられるはずがありません。

 

「どうしたら、この人が栗農家を続けていけるか? 」

 

そこまで親身に考えてくださいました。

そして、「農家自身による焼き栗の加工販売」の提案です。さらに、焼き栗販売に必要な氷温熟成、製造、販売などのノウハウも無償で伝授すると言ってくださいました。

 

仕入れを断念してまで、私の生活を優先してくださいました。

「農家さんが潰れたら私たちも潰れるから。松尾さんの場合は自分で焼き栗がんばって、まず栗農家を続けられるようになってね。日本全国の素晴らしい栗農家さんを紹介するから、いろいろ見に行くといいよ。いずれ、面積、収穫量が増えてきたらうちにもたくさん卸してください」

 

初対面の他人にこんなに親身になれる人がいるんだ...しかも、大変な苦労を重ねて培った技術を無償で教えてくれるなんて。この人たちを信じようと思いました。

同時に、今、生栗を卸すだけで生き抜くのは無理だと決断できました。

 

その出会いから間もなく、輪島朝市組合事務所、地元の大型スーパー2軒(輪島市のワイプラザ、穴水町のどんたく)に電話連絡。その日のうちに売り込み営業に回りました。

 

「おもしろそうだね。いいよ、店頭で実演販売やってみてよ」

 

ワイプラザとどんたくの店長さんはひとつ返事でOKをもらいました。いきなり売る場所が2ヶ所できました。私の大きな希望と勇気になりました。

 

輪島朝市組合は、最初は事務的な対応だけでほとんど門前払いに近かった。聞けば、「出店申請者は次々に表れる。新参者がすぐ入れる場所はない」という現状。とりあえず申請書類を書いて押印するように言われました。
印鑑を車に忘れて駐車場まで取りに戻りました。

 

5分後、再び組合事務所に入室すると、

「松尾君は素晴らしい若者だ。松尾君みたいな若い力が朝市にも必要だ。よし、応援するよ」

対応していただいた専務理事さんの態度が明らかに変わっていました。


その理由は、私が退室中に専務さんがある新聞記事を読まれたことでした。

私が売り込みに持参したものは、徹夜で作った企画書と新聞記事。実は、少し前に夕刊フジから取材を受け掲載されていたのです。そこで、冒頭に記したような私の生い立ち(両親の借金返済と弟の学費を家に入れ続けたこと)も一部記事になっていました。

 

専務さんはとても情にもろい人だった。その専務さんの応援があって、1ヶ月後の理事会において満場一致で新規出店申請が認められました。

 

 輪島朝市組合の専務理事さん、ワイプラザ輪島店、どんたく穴水店の両店長、次々と恩人に出会いました。そして、何と言ってもくりはちさんです。絶望から一転、希望の光を見させてくれました。私にとって人生の救世主でした。「この人たちにいつか恩返ししていきたい」そんな気持ちも自分のモチベーションになりました。


失敗続きのスタート

 

独立初年度の栽培は本を読みながらの独学でした。正直、ほとんど理解できません。

栗樹の枝の名称だけでも、主枝、亜主枝、結果母枝、結果枝、徒長枝、長果枝...どの枝がどれなのか、剪定でどれを切った方がいいのか...。

 

特に冬期剪定は手を動かすより迷っている時間の方が長かった。見かねて近隣の栗農家さん、行政の普及員さんがアドバイスに来てくださいました。

細かい整枝は時間がかかるためこの年は断念。チェーンソーで芯抜きだけ行いました。

当時、私が引き継いだ栗園の栗の樹はほとんど高さ7m以上の大木。今の栗栽培の主流は樹高3mほどの低樹高栽培です。

7mも伸びている太い枝(芯)があると、そこから派生する枝も多く、樹の内部、下部、さらには近隣の樹まで広く日陰を作ってしまいます。

太陽光が当たるのは頂上部分のみ。花も実も頂上部だけ付いている状態でした。

一番高い真ん中の芯をチェーンソーで伐採し、最低限の陽当たりを確保しました。

 

春から夏にかけては見よう見まねで施肥、草刈りを行い、いよいよ収穫を迎えました。

農薬だけ半分に減らしてみました。

結果的には前年を上回る約680㎏を収穫。と言っても、これは選果をクリアしたもの。

実際に拾い集めた量は確実に2倍以上あったと思います。特に、9月下旬以降は虫被害果だらけでした。

 

ピーク時は、朝8時から拾い始めて昼食抜きで何とか夕方6時に収穫終了。

帰宅後、栗の水洗いと乾燥に2時間費やし、ようやく自分の夕食とシャワー。夜10時から選果を開始してそのまま夜が明ける。ほぼ徹夜でまた収穫に向かう。

それだけ必死の思いで拾い集めたのに虫被害果だらけ。毎日大量に廃棄(焼却)処分...。

さすがに、何の根拠もなく農薬を減らした自分の行動を後悔しました。

 

さらに、もっとショックな事。熟成の失敗です。我が園では、収穫後すぐに焼き栗にはしません。

最低1ヶ月以上は冷蔵庫の中で熟成させます。栗のデンプンが糖化して糖度が3倍ほど増すからです。

そのため、収穫前に2tの栗を貯蔵できるプレハブ型の業務用冷蔵庫をローンで購入。この冷蔵庫内ですが、決して栗を凍らせてはいけません。凍ってしまうと細胞が壊れて味は落ちてしまいます。

 

私は毎日時間を決めて温度センサーをチェックしていました。にもかかわらず、この独立初年度は数百kgの栗を凍らせてしまったのです。

センサーは入口近くにあり、送風ファンは庫内奥にありました。その庫内奥がマイナス5℃になっていました。

当時はセンサーさえ見てればいいと安易に解釈していました。

睡眠不足でフラフラになって収穫、選果した栗。その大半が売り物にならず廃棄処分することになりました。

栽培、収穫、選果、保管...。1年かけて自分が費やしてきたものが無になりました。

 

ショックが大きすぎて涙も出ず、ただただ絶望感で一睡もできなかったことは覚えています。

 

                                第一章(2005夏~2006秋) 完


 

焼き栗実演販売デビュー、長野県新規就農者仲間との出会い、能登流栽培からの脱却、そして結婚…

 

その後の松尾和広の物語はまだまだ続きます。

 

只今、その後の話を準備中です。もうしばらくお待ちください。